諸行無常

地震の影響で先週の配信が滞っていた『平家物語』を最終話まで観る。物語はいよいよ壇ノ浦の戦いを語って閉じる。短い尺に義経が梶取を射ることを命じる場面まで盛り込んで、さまざまな説を巧みに踏まえた決戦を描いている。名を惜しむというキーワードによって、なぜ、徳子が生き残ったのかというあたりが説明されていると思うのだが、どうか。

全体にクオリティの高い作品で、これと『鎌倉殿の13人』が重なる時代を扱っているのはもちろん偶然として、夏には同じ古川日出男の『平家物語 犬王の巻』を原作として野木亜紀子が脚本を書いた『犬王』が控えているので、このあたりが2022年の基調となっていくであろう。諸行無常。

ドライブ・マイ・カー

『ドライブ・マイ・カー』を観る。40分を過ぎたところでタイトルバックが入ってきたのには驚いたけれど、179分の長尺であればそういうこともある。インターナショナル版とのことだが、特にドメスティック版というものはないみたい。

村上春樹の原作ということで期待される雰囲気と、濱口竜介監督の映画の方法は非常に相性がよく、村上春樹なのかチェーホフなのかというところはあるとして、3時間の尺も特に長くない。よく設計された画面は均整がとれているという以上に文脈を感じさせるもので、映画として高い評価を受けるというのも納得がいくのである。通好みという印象はある。

とはいえ、ダイアログさえ通り越してテキストそのものを重視する演出については、舞台稽古を題材として劇中で説明されているし、「私にとって言葉が通じないのは普通のことです」というセリフが配置されていたり、頬の傷がわかりやすい象徴として使われていたり、あれこれ至れり尽くせりという感じで難解なところがほとんどないのには好感がもてる。

いろいろと腑に落ちる演出ではあるけれど、北海道の雪道をノーマルタイヤで走っているのではないかという点については、ちょっとひやひやしたものである。多摩ナンバーのサーブがあらかじめスタッドレスタイヤを装着しているという設定はあるだろうか。いいけど。

その瞳に映るのは

『その瞳に映るのは』を観る。ナチス支配下のデンマークで、英国空軍によって行われたゲシュタポ司令部への爆撃。そこで起きた寄宿学校への墜落と誤爆によって125名の民間人が犠牲になった史実をもとにした映画。その日、その場所に居合わせることになった人生の交差を描き、非常に優れた映画表現で複雑な世界の構造を示そうとしている。演出の緩急と暗転の巧みさは部分だけでなく全体の構成にもあって、標的誤認に続く一連の混乱から壮絶な救出作業に続くクライマックスは巧緻を超えて凄まじい。傑作であろう。

そしてこれもまた今、ウクライナで起きていることを想起させる映画なのである。もちろん、配信の予定はかねて決まっていたものであり、結局のところ我々の世界ではこうした悲劇が繰り返しあらわれ、救いといえるものは見当たらない。

ブラック・クラブ

『ブラック・クラブ』を観る。ノミオ=ラパスが主演のディストピア映画。敵の侵攻と長い戦いの果て、恐らくは低出力核の使用もあって荒廃したヨーロッパを舞台として、軍隊だけがかろうじて機能しているその世界で、命令をうけて氷上の長征を行うことになった民間出身の兵士たちの末路を描く。この設定が、いろいろと時節を捉えていて、まずはそこに驚く。

北欧らしきこの国に侵攻して民間人を無差別に攻撃する敵の正体はロシアでしかありえず、日常の崩壊を描く場面は今日を予見したかのようで、この映画の一番の見どころにもなっている。ライフラインの途絶と民家近くへの爆撃、その振動で舞う埃の繊細な描写は精緻であるがゆえに現実を想起させ、恐るべき同期を現出させているのである。今次のウクライナ侵攻がなければ、古臭い20世紀風の世界観だと思ったはずだとして。

ノミオ=ラパスは娘と生き別れになった母親を演じて、例により切実な印象の演技でうまい。美術もCGも北欧映画のいちばん高いあたりにあって、画面のクオリティも悪くない。人々が凍りついた海のイメージには慄く。

少し違和感があるとすると、この世界においてなおヘリが運用されているところで、そのリアリティはともかく、ならばミッションの必要性そのものが成立しないのではないかと思わなくもない。

ザ・ネゴシエーション

『ザ・ネゴシエーション』を観る。ヒョンビンとソン=イェジンが『愛の不時着』の前に初めて共演した2018年のサスペンス映画で、ソン=イェジンがソウル市警の交渉人、ヒョンビンが犯人の役。やや長髪のヒョンビンを拝むことができるのでファンにはよいのではないだろうか。韓国ドラマを数多観ているにもかかわらず『愛の不時着』を完走していないこちらからは、特に言うこともないにして。

サスペンスとしては水準作で、ソン=イェジンはどうやら舶来帰りのネゴシエーターという設定だけれど、それを裏付ける細部の作り込みはやや甘く、プロフェッショナルな印象がないのは残念。ヒョンビンの活躍も今ひとつだけれど、これはオンラインでの交渉という設定が災いしていると思う。筋書きはジャンル映画にはよくあるもので、クライマックスには既視感すらあって以前、観たことがある映画を知らず楽しんでいるのではあるまいかと怯えたものである。

007 / ノー・タイム・トゥ・ダイ

『007 / ノー・タイム・トゥ・ダイ』を観る。エンドクレジットの終わりに「JAMES BOND WILL RETURN」とあるけれど、ダニエル=クレイグの出演はこれで最後。COVID-19の影響で何度となく公開が延期され、もちろん劇場にも足を運ぶことなく今日に至るという見送り方にはちょっと忸怩たるものはある。2006年の『カジノ・ロワイヤル』は『007』の新しいスタンダードを確立し、歴代ではダニエル=クレイグがいちばんのボンドということに異論のない立場としては。

本作の始まりは『スペクター』と地続きで、ひと騒動あってからの本編は5年後。ヒロインは前作に引き続きレア=セドゥということだけれど、キューバのパートに登場する現地諜報員を演じるアナ=デ・アルマスは噂通りのカッコよさでスピンオフがあってもいい。この立ち回りの華やかさこそ『007』であろう。

アダム&アダム

東日本大震災から11年。

『アダム&アダム』を観る。12歳の少年アダムのもとに、2050年から未来の自分が訪ねてくる。『ターミネーター』ばりに未来の敵もついてくるのだけれど、SFではあっても徹頭徹尾ファミリー映画で、だいたいは家族の話。したがって、時間軸のあれこれは深く考えるだけ無駄というものだが、時間を遡行する12歳のアダムがマイケル=J・フォックスみたいなダウンベストを着ているあたりは気が利いている。

ライアン=レイノルズが40歳のアダムでゾーイ=サルダナがその妻、マーク=ラファロが父親の物理学者というわけで、結構な豪華キャストなのである。プロットは今ひとつ整理されていないのだけれど、家のセットが洒落てたり、全体に美術関係のあれこれが悪くないので観てしまう。