異邦人の虫眼鏡

その長い待機については半年に一度くらい言及していると思うのだが、予告された『図書館の魔女』シリーズの新刊『霆ける塔』を待って既に5年、公式アカウントが令和元年と言ってから3年、2022年も終わろうかというこの日、『別冊文藝春秋 電子版』で連載2回目となる『異邦人の虫眼鏡』を読む。フランスの大学都市トゥールで、パンデミックのあとに一軒家を借りて農村の生活を送る作家の、1回目は庭の草木、2回目は自家製和食材についての博覧の記録で、まずその内容は面白いのだけれど、家主には執筆がすすんでいるかと問われて嘘を吐いたという一節があって、おいおいとなる。その諧謔がいいのだということは理解するとして、我々はあと幾つの夜を越えなければならないのか。

家人についてのささやかな言及は新鮮で、いくつか載せられた庭の花の写真については撮影者としてきちんとキャプションをつけているあたり、学究の人らしさがあって好ましい。

同志少女よ、敵を撃て

『同志少女よ、敵を撃て』を読む。アガサ・クリスティー賞の本年度の受賞作という触れ込みで、独ソ戦を戦ったソビエトの狙撃兵という珍しい題材を扱っている。映画ならジュード=ロウの『スターリングラード』、ノンフィクションなら『戦争は女の顔をしていない』を想起させるところがあって、しかし和製小説ではこその読みやすさもあり、よくできているのではなかろうか。いきなり直木賞ということにはならないだろうけれど、エピローグに船での帰還が描かれる冒険小説が殊の外、好きである。そのあたりの定型もわりあい踏まれている様子がある。

アガサ・クリスティー賞が幅広いジャンルを募っているとはいっても、このミステリ作家の名を冠した新人賞としては題材が遠いのではないかと思っていたのだが、「敵」とは何かを叙述的に解明し、登場人物の動機に焦点を当てた物語だと解題されれば、なるほどという気もする。

この日、米国ではオミクロン株によって1日あたり100万人の感染者が出るのではないかという予想が語られる。これまでべらぼうなペースで拡大しているからにはないこととも思えず、重症化率がやや低かったとしても、これから大変な厳冬期を迎えることになる。

時間は存在しない

カルロ=ロヴェッリの『時間は存在しない』を読む。ループ量子重力理論の提唱者のひとりである筆者が、超弦理論と双璧をなすループ量子重力理論の眼目のひとつでもある時空とは何かということについて非常にわかりやすく語っている。一方の超弦理論がそれを所与としていることに比較すると、一頭地抜けているという印象があるけれど、その優劣はもちろん凡人の理解するところではない。文中、量子重力理論において超弦理論と競っているという点には言及があって、その決着は遠からずつくのではないかと述べているあたりに自信が垣間見えると思うばかりである。

無論のこと内容は高度に抽象的ではあるのだけれど、ループ量子重力理論が時間を特権的な変数として扱わずに世界を記述するものだということは理解できるし、その言おうとしているところも何となく感じられる書き振りで、しかし数式はエントロピーを記述するのみと徹底的に排除されているあたり、科学啓蒙書としては恐ろしく優れていると思うのである。人類はここまで来たとさえ。そして、世界の成り立ちを考える体系であればこそ、人とは何か自己とは何なのかということを深く考えずにはおかないのだということもよくわかる。

プロスペクト理論がそうであるように、コペルニクス的な展開をもたらすほどの理論というものは、人間そのものを再定義してしまうようなところがあって、それは拒否反応すら呼び起こしかねないものではあるけれど、筆者はそのケアにもページを費やしていて何だか慰められたような気分になる。存在はものとしてあるのではなく、関係性にあるというのは、仏教なら因果と縁というものであって、世界を説明する言葉があらかじめ用意されていることには驚くばかりである。

ながたんと青と

『ながたんと青と』を読む。KISS連載中のコミックで、昭和20年代、占領統治の終わろうとしている京都で、戦争で夫を亡くした料理人が実家の料亭が援助を受けている大阪の有力者の三男と結婚し、傾きかけたこの料亭を立て直そうと奮闘する。ながたんという京言葉が菜切り包丁であるというのを初めて知ったのだけれど、菜刀からきているといえば、なるほど京言葉なのである。

第一印象最悪の年の差夫婦というロマンチックコメディの王道を踏みつつ、戦後に舞台をとって設定の不自然を感じさせず、今にもNHKの連続ドラマになりそうな類型でもありながら、いろいろと良い塩梅に整っていて面白い。

どこかで全7巻という文字をみたと思ったのだけれど、夜も深まってから読み始め、最後まで見届けようと読み続け、完結していないことを発見して驚愕する。既刊が7巻という意のよくあるミスコミュニケーションで、話はまだまだ続いているみたい。磯谷友紀というひとのマンガを初めて読んだけれど、目下の連載が三つもあるようなので感心している。

3月のライオン #16

『3月のライオン』の16巻を読む。連載も12年という話だが、今や印刷された媒体で読む唯一の漫画となった。もちろん何もかもが移ろっていくとして、物語の時間軸は現実ほど加速されてはおらず、この巻では年末年始の濃厚で幸せな時間を丁寧に描いているので、じんわり温まる。いい。

この日、自民党の新しい総裁が決まる。ほとんどひと月近く続いてきた報道の狂騒も落ち着くということであればそれだけが救いだが、来たる衆議院選挙が国民にとって首相選択の機会とならなければこの国は滅ぶ。一方、その当選人から民主主義が危機にあるというコメントがあったのには驚きもあって、その点については全くその通り。

股旅新八景

長谷川伸『股旅新八景』を読んでいる。八景というからには八つの物語が編まれた短編集なのだが、今さらいうまでもなく、ひとつひとつの密度が高い。開巻から数段落の入神の筆致には感心しきり。

背後にヒヤリとしたものを感じた八丁の浜太郎は、永年の鍛錬で、気がついたときはからだをかわすとき、かわしたときは腰の長脇差がものを言う時だった。

書き出しから一筆書きのように情景が流れていくのには、文字通り息をつく間もないのである。いやいや。

この日、パラリンピックの児童観戦をめぐり引率の教師がCOVID-19に感染していたという騒動があり、日本語変換的には東京都特許許可局みたいな観戦と感染のせめぎ合いが続いている。千葉県は中止の考えはないという判断を夕方には撤回して以降の児童観戦はキャンセルされたようだけれど、この無意味な強情はいったい何がもたらしているのか、さすがに不思議に思える。愛知では、これまでの感染対策をひっくり返すような野外フェスが行われたという事案が話題となり、どこもかしこも狂騒と混迷のなかにあるというのが本邦の現在位置のようである。いったんピークを打ったかにみえる感染状況だが、遠からず再拡大となるだろう。

暁の宇品

堀川惠子『暁の宇品 陸軍船舶司令官たちのヒロシマ』を読む。広島・宇品を拠点とした陸軍船舶司令部のキーマンとなった三人の軍人を通じてその興亡を描き、旧軍の兵站思想の実際を浮き彫りにする。これまであまり知られていない田尻昌次中将の手になる資料を発掘し、往時の状況に照らして読み解いていく手つきだけではなく、太平洋戦争直前に軍を追われた中将の謎の設定と取材を通じて発見されたその答えを読ませる筆致も秀逸で間然たるところがない。

国家が経済そのものを戦時体制に動員していくなかで、これをシステムとして計量化して理解することができず、物量的にははじめから明らかな負け戦に突入し、結局のところその辻褄を合わせるために現場が疲弊するというのは、さきの大戦だけでなく、言いたくないがこの度のパンデミックにおいても再現されている構図で今日的な文脈が際立っていると思うのである。