死神永生

『三体III 死神永生』を引き続き読んでいる。上巻の半ばを過ぎてから、物語のスケールはさらにアップして、そういえばこのところハードSFといえるジャンルの作品をあまり読んでいなかったと反省している。暗黒森林という壮大な宇宙観にもとづいて、ここまで風呂敷を広げた劉慈欣という作家の仕事には感心するばかり。ことに、宇宙的な距離の暴虐をきちんと描いているところには好感しかない。後半にかけてぐいぐい面白くなるのもいつもの通り。

『三体』世界の人類は基本的に気分によって右往左往する烏合の衆という扱いなのだけれど、オリンピックは断固として強行し、しかし期間中は感染防止のためテレワークに協力せよという本邦の有り様も似たような集団的な愚かさと終末感があってかなりやばい。コロナ禍においてもみえる人間の愚かさを煮詰めて示しているところに作者の慧眼があるとして。

三体III 死神永生

予約して買い求めた劉慈欣の『三体III 死神永生』を読んでいる。上下巻しめて4,000円、三部作の進行につれて分厚くなるという正常進化の様態で、時間はやや巻き戻って三体危機のはじめの年月から語られる。これがどこに向かっていくのかは読みすすめるほかなく、予想もしない物語となるに違いないのである。開巻近く、「我が赴くは星の群れ」計画が発動して、そういえば著者は『銀河英雄伝説』のファンだった。楽しみ。

緊急事態の再延長がまたしても空疎な言葉とともに宣言され、予定されているオリンピックの一ヶ月前に何が何でも打ち切って蔓延等防止重点措置に移行しようというところまで透けているけれど、どうやら首都圏はいわゆるインド変異株の感染拡大初期にあって、あまり役に立っているとは見えない専門家ですら政府の見解と一線を引き始めているみたい。

緊急事態宣言による絶対数の低下を踏まえてこれを6月20日に解除することになれば、実効再生産数の高いウイルスが急激に拡大した大阪の3月の状況と同じことになる。ちょうど開会式のあたりで修羅場を演出しようというのも最早、わざとやっているとしか思えない愚策だが何も考えていないのか。

クララとお日さま

カズオ イシグロの『クララとお日さま』を読む。裕福な子供の友達として作られたAFというロボットのクララが、店頭にいた頃から、やがて買われていった家庭でも外界の学習を続け、信仰をさえ持ってパートナーとなった少女のために動き、祈る。たとえば『わたしを離さないで』に近い雰囲気は確かにあって、孤児の物語であり、その使命を終える地点まで語られるという点でも似た構造をもっている。クララによる一人称の物語は、どうやら情報の処理がオーバーフローすると現れるボックスという現象によって主観画像が突如、変化することがあり、ぎょっとするような異質な世界が不意に立ち上がって不穏を演出する。その世界を一貫して描き切る筆力の確かさは今さらいうまでもなく、終盤の余韻は気づくと澱のように残っている。

方法序説

Audibleに岩波文庫の『方法序説』があったので、これを聴く。17世紀の哲学者の考えをあらためて音声で聴くという経験自体がちょっと面白くて、科学の方法の原型を語る言葉はつまり現在と地続きの、個としての人間の寿命を越えた射程の長いもので、ちょっと感動する。そして第六部は、耳からは、何故、私はTwitterをやらないのか、そして止むを得ずTweetすることになったのか、という話に聞こえてちょっと笑う。このように、オーディオブックには脳のちょっと違う部分で共感を促す作用があるようで、興味深いと思ったことである。

竹中平蔵のトリマキだった窃盗歴のある大学教授にして内閣参与たる人間が、日本のコロナはさざ波と状況を嘲笑って顰蹙を買っている。同じとき、神戸では動脈血酸素飽和度が静脈血程度の70%台でないと入院できないという当局コメントに多くの人が戦慄していて、「さざ波」で医療崩壊の現実と、その状態にあってなお地方自治体任せで全体調整が何ら機能していない国家の現状が露呈している。政府が自衛隊に丸投げした1万人規模の接種会場運営は結局、民間に丸投げという話もあって、その無能を嗤う段階ですらない。

東京ディストピア日記

3回目の非常事態宣言が発出したこのタイミングで、桜庭一樹の近刊『東京ディストピア日記』を読んでいる。COVID-19が徐々に日常を侵食して初めての非常事態宣言が市井の人たちの生活を大きく変えた長い春から2021年初頭にかけての記録であり、著者が自ら稗史という通りの内容なのだけれど、あまりに多くのことが起こったこの1年を時系列で記録してあるだけでも読み応えはあるとして、作者の観察と友人の意見とインターネットが伝える出来事がやがて世界の変容を象って、地球の裏側までの射程をもった文脈を成立させているあたりがとてもいい。事態がなお進行中であることを踏まえると、世界の終わりはこのように始まったとも読めるのである。

著者自身のnoteにしばらく投稿されていた記事ももとになっていて、そちらの雰囲気も好きだったけれど、書籍のもととなった雑誌掲載にあたってはもちろん書き込み方が違っていて、この対比も大変興味深い。ちょっと歴史的な価値があると思うのである。

霆ける塔

『図書館の魔女 霆ける塔』の発売を待つというだけの投稿も何回目か。2016年からまさか5年目になるとは思っていなかったけれど、令和3年の3月、その知らせはまだない。令和元年吉日の報からしても2年が経とうとしているのだから、月日の経つのは速い。この上、これも仮題のみ伝えられている『記憶の対位法』については一体、いつのことになるか。2019年に思いがけず『まほり』が刊行されたのは、ほとんど僥倖のような出来事だったのである。

ホモ・デウス

Podcastとオーディオブックは車通勤者の神器というわけで、たまにオーディオブックを聴きたくなることがあり、しかしコンテンツラインナップも盤石というわけではないので、解約しては再加入ということを繰り返している。サービスは勝手を知っているAudibleを使うのだけれど、再加入なのに初月無料という扱いになっていて、何だか申し訳ない。

今はハラリの『ホモ・デウス』を1.6倍速くらいで聴いているのだけれど、人類史のスケールでは飢饉・疫病・戦争を克服した段階にあるという論考にはさすがに綻びを感じている。疫学的対応のスピードはウイルスの進化を上回るという原理的な一点において、長期的利益の視点が短期的利益の追求を制することができればという留保条件がつくということを我々は思い知っているからには。